「同期とは今でも2ヵ月に一度は飲みに行きます」と言う。彼は2009年卒で、氷河期のさなか、やっと決まった就職先だった。気のおけない同期にも恵まれ、順風満帆に見えた社会人生活の始まりだったが。「入社して、営業部の課長の下に配属になりました。60歳ぐらいの方です。当然、色々仕事をやっていくものだと思っていたら、入社当日からなにもないんですよ。本当になにもない。仕事を振られるわけでもないし、なにか指示されるわけでもない。ぽんと、ただひたすら自分の席に座ってる状態ですね。朝会社に行くと取引先からFAXがきてるんです。自分が一番下っ端なので、まわりに配る。仕事って言えばこれぐらいです。こんな状態が、毎日続きました。
『なにかお手伝いできることないですか?』つて課長に聞くんですけど、毎回『今はない』『特にないな』つて言われちやうんです。課長本人も、いつも定時にはササーツと帰ってましたし、かなり暇してたんじやないでしょうか。そんなある日、事件が起きました。違う課の30歳ぐらいの先輩が『色々やらないと覚えられないからね』つて仕事を振ってくれたことがあったんです。ちょうど入社したばかりで、私自身担当の仕事もなかったし、喜んで引き受けました。お昼ごろ、その先輩からもらった仕事を処理してたら、私の上司である課長が来て『なにやってんだ』つて聞くんですよ。『○○さんから頼まれた仕事をしていて』つて説明したら、急に課長が怒り始めたんです。
フロア中に響き渡る声で、その先輩に向かって『俺の部下に勝手に指示するんじやない。自分の仕事を押し付けてサボるつもりか』つて。一瞬で社内が凍りつきました。『俺が指示した以外の仕事はするな』つて、私もこっぴどく怒られました。上司は、普段はどちらかというと穏やかなおじさん。そんな人があんなふうに怒鳴るなんて、本当に驚きました」しかも、事態はこれだけでは終わらなかった。「それ以来、まわりの先輩達が私に仕事を振りづらくなっちゃったんです。ただでさえ新人で、担当業務もない状態だったのに、まわりから何も教えてもらえなくなってしまって。
その先輩も、忙しかったっていうのもあるだろうけど、私に仕事を押し付けてサボろうとしてたわけじゃなくて、仕事がないのならなにかさせたほうが本人のためだろうからって気持ちで仕事を任せてくれたんだと思うんですよね。それがこんなことになるなんて」「俺の部下に勝手に仕事を与えるんじゃない」と課長がキレたエピソードは、まさに「他部署のことは関係ない」「自分の仕事さえやればいい」という見えない壁が存在する縦割り組織を象徴する出来事だ。海保さんが他部署の仕事を手伝う行為は、よくよく考えてみれば、そこまで問題があるとは思えない。海保さんは暇を持て余している状態だったし、上司もそのことを把握していた。むしろ他部署にとっては業務の負担を分担できるということであり、海保さんにとっては絶好の実地教育を受ける機会にもなったからだ。ずっとではなく一時的であれば、他部署の手伝いをさせてもかまわなかったのではないか。
しかし、縦割り体質の組織内では、こんなちょっとした他部署の手伝いだったとしても、大きな問題になってしまう。また、海保さんはこのようにも語る。「専門商社は個人商店の集まりみたいなものですから、どうしても各個人の得意分野ができてしまって、それ以外のテリトリーのことはやらない、まわりのことは全然知らない状態になっちゃう部分もあります。『あの人の担当商材は△△』『あの人は○○と口□』ということぐらいは分かるんですけど、具体的にどんな仕事をしてるかっていうと全然分からない」個人が業務を抱え込んでしまい、他者が関与できない状況にあることを、業務が属人化している状態と呼ぶ。
2015年5月11日月曜日
「武力攻撃事態」と首相の戦争権限
すぐみるとおり、有事=防衛出動のみではない。もっと広く適用される。「有事法制研究」は、一九七七年八月、福田内閣の時代、三原朝雄防衛庁長官の指示で開始された。「日米防衛協力の指針(旧ガイドライン)」がはじめて作成された(一九七八年)のと同時期である。防衛庁公表文(一九七八年九月一二日)は、次のように述べている。研究の対象は、自衛隊法第七六条の規定により防衛出動が命ぜられるという事態において自衛隊がその任務を有効かつ円滑に遂行する上での法制上の諸問題である。問題点の整理が今回の研究の目的であり、近い将来に国会提出を予定した立法の準備ではない。
現行憲法の範囲内で行うものであるから、旧憲法下の戒厳令や徴兵制のような制度を考えることはあり得ないし、言論統制などの措置も検討の対象としない。今回の研究の成果は、ある程度まとまり次第、適時適切に国民の前に明らかにし、そのコンセンサスを得たいと考えている。そこでは、あくまで「現行憲法の範囲内」での作業であること、また「外部からの武力攻撃に際して」の対処であること、さらに「研究」であって法制化の意図はない、と強調された。その後、進展状況につき八一年四月と八四年一〇月に中間報告が発表されたが、この間、国会における論議は散発的な質疑がなされたていどで、有事法制論議は以後二〇年間、封印された状態にあった。
だが、一九九七年九月、日米間で共同作戦の基盤となる「新ガイドライン」が合意され、実効性を確保するための国内法「周辺事態法」が九九年五月に成立すると、「有事法制研究」は日米同盟のあらだなよそおいの下で法制化へ動きだす。新ガイドラインに、周辺事態における自衛隊の「対米後方地域支援」任務が新設されたためである。それとともに新ガイドライン別表は、米軍による「民間空港・港湾の一時的使用」けじめ輸送・医療・給水など広範な「地方公共団体と民間企業」の協力事項も盛り込んでいた。これを受け周辺事態法第九条には、地方自治体と民間に対する国の指示権が規定された。米軍・自衛隊一体となった新活動は、地域と民間にあらたな戦争基盤をつくりだし、協力体制を整備してはじめて成り立つ。それが二人の首相の施政方針演説に反映されるのである。
「有事関連法案」は、二〇〇二年国会に「武力攻撃事態法案」「国家安全保障会議設置法改正案」「自衛隊法改正案」の三法案として提出された。核心となるのは「武力攻撃事態法案」である。そこに盛られた「武力攻撃事態」という新概念の定義が論議の焦点となった。武力攻撃事態法案には、この用語が三とおりの意味で用いられる。武力攻撃一我が国に対する外部からの武力攻撃、武力攻撃事態武力攻撃が発生する明白な危険が発生していると認められるに至った事態、武力攻撃予測事態一武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態。以上三つをまとめて「武力攻撃事態等」という。
もはや「防衛出動が命ぜられるという事態」のみが有事ではないと理解できる。有事の定義を時間・空間ともに拡大させただけでなく、それらを「等」で一括し、すべてに適用させる融通性をもたせたことに大きな特徴がある。まだ七八年の説明範囲だが、加えられた新ケースも、「武力攻撃事態等」に入るので、政府は対応権限を行使できることになる。幅広い「国家緊急権」の掌握である。「予測事態」とは、時間的には「武力攻撃」発生前の段階から動き出す事態、また地理的には日本領域以外で発生した事態と受けとめられる。それがすぐさま「我が国に対する直接侵略」(自衛隊法第三条)や「外部からの武力攻撃」(同七六条)につながるとはかぎらない。
現行憲法の範囲内で行うものであるから、旧憲法下の戒厳令や徴兵制のような制度を考えることはあり得ないし、言論統制などの措置も検討の対象としない。今回の研究の成果は、ある程度まとまり次第、適時適切に国民の前に明らかにし、そのコンセンサスを得たいと考えている。そこでは、あくまで「現行憲法の範囲内」での作業であること、また「外部からの武力攻撃に際して」の対処であること、さらに「研究」であって法制化の意図はない、と強調された。その後、進展状況につき八一年四月と八四年一〇月に中間報告が発表されたが、この間、国会における論議は散発的な質疑がなされたていどで、有事法制論議は以後二〇年間、封印された状態にあった。
だが、一九九七年九月、日米間で共同作戦の基盤となる「新ガイドライン」が合意され、実効性を確保するための国内法「周辺事態法」が九九年五月に成立すると、「有事法制研究」は日米同盟のあらだなよそおいの下で法制化へ動きだす。新ガイドラインに、周辺事態における自衛隊の「対米後方地域支援」任務が新設されたためである。それとともに新ガイドライン別表は、米軍による「民間空港・港湾の一時的使用」けじめ輸送・医療・給水など広範な「地方公共団体と民間企業」の協力事項も盛り込んでいた。これを受け周辺事態法第九条には、地方自治体と民間に対する国の指示権が規定された。米軍・自衛隊一体となった新活動は、地域と民間にあらたな戦争基盤をつくりだし、協力体制を整備してはじめて成り立つ。それが二人の首相の施政方針演説に反映されるのである。
「有事関連法案」は、二〇〇二年国会に「武力攻撃事態法案」「国家安全保障会議設置法改正案」「自衛隊法改正案」の三法案として提出された。核心となるのは「武力攻撃事態法案」である。そこに盛られた「武力攻撃事態」という新概念の定義が論議の焦点となった。武力攻撃事態法案には、この用語が三とおりの意味で用いられる。武力攻撃一我が国に対する外部からの武力攻撃、武力攻撃事態武力攻撃が発生する明白な危険が発生していると認められるに至った事態、武力攻撃予測事態一武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態。以上三つをまとめて「武力攻撃事態等」という。
もはや「防衛出動が命ぜられるという事態」のみが有事ではないと理解できる。有事の定義を時間・空間ともに拡大させただけでなく、それらを「等」で一括し、すべてに適用させる融通性をもたせたことに大きな特徴がある。まだ七八年の説明範囲だが、加えられた新ケースも、「武力攻撃事態等」に入るので、政府は対応権限を行使できることになる。幅広い「国家緊急権」の掌握である。「予測事態」とは、時間的には「武力攻撃」発生前の段階から動き出す事態、また地理的には日本領域以外で発生した事態と受けとめられる。それがすぐさま「我が国に対する直接侵略」(自衛隊法第三条)や「外部からの武力攻撃」(同七六条)につながるとはかぎらない。
2015年4月6日月曜日
華やかな工場への夢
これまでの社長演説でも、たいがい「困難」を説き、「挑戦」をアジつてきた。工場での毎日の朝社でも、「困難」と「挑戦」があらゆる職場の職制から演説され、日本一の儲けがしらであるトヨタの賃上げの回答もまた、きたるべき「困難」に挑戦するために内部留保を厚くする、との名目で抑えられてきた。そしてついに「全面戦争」の時代を迎えたのである。一億の火の玉となって、欲しがりません勝つまでは、撃ちてしやまん、そんなような精神主義が繰り返し、繰り返し唱えられているのである。
トヨタでの労務管理の特徴をひと口でいうと、「鼻先にニンジン」ということになる。コンペアに縛りつけられた労働者たちは、「世界戦争に勝つ」の大号令のもとで、鼻先にニンジンをぶらさげられた馬のように、懸命に手足を動かす。ここでは、労働組合は駁者の助手である。トヨタでのもうひとつのスローガンは、「ムダをはぶけ」である。もちろん、人間のムダが最大の問題である。コンベアにはムダな人間はひとりもいない。だからトイレへいく自由まで奪われている。交替要貝はとうの昔に省かれてしまった。産業ロボットに替えられるまで、彼らはムダのない正確無比な動作を繰り返す。そして、いつもつぎの点をさかんに監視しあっているのだ。
Aさんがトヨタにきたのは、一九六九年の秋である。中学校を卒業して、二年ほど郷里の北海道ではたらいていたのだった。合板工場でニつすく削られた板の節目をノコで切り落とし、その穴を埋める。そんな仕事だった。毎日の単調な生活は、どこか遠くの見知らぬ土地ではたらくことを夢みるようにさせていた。なにかもっとちがう、もうすこし華やかな生活があるはずだ。そんな想いに捉われるようになっていたのである。
新聞広告をみて、町の職安へでかけたのは、クルマが好きだったからでもあった。埃まみれの合板工場よりも、きらびやかなクルマをつくりだす工場の方が若者にとっての魅力だった。その日、トヨタの採用係と面接したのは、Aさんひとりだった。家をでるとき、彼のポケットにはいっていたのは、四万円だった。函館にでて連絡船に乗る。津軽海峡をわたって青森から東北本線に乗りかえ、東京からは新幹線である。新幹線ははじめての体験だった。隣りあわせに座ったのは、まったくの偶然だが、やはりトヨタの見習い工として採用された二〇歳の青年だった。名古屋への二時間、窓の景色を眺めながら、ふたりはすこしずつ自分たちのことを話しあった。はいってまもなく、彼はやめてしまったのだが……。
改札口をでてすぐそばの壁画のまえが、集合場所である。トヨタの旗をもっか人事部勤労課の係員が、頃あいをみはからって、外にまたせたトヨタのバスに誘導する。わたしもそれとおなじ経験があるので、よくわかるのだが、名古屋から豊田心への丘を越えてくねりながらつづく道は、はなはだ心細いものである。
トヨタでの労務管理の特徴をひと口でいうと、「鼻先にニンジン」ということになる。コンペアに縛りつけられた労働者たちは、「世界戦争に勝つ」の大号令のもとで、鼻先にニンジンをぶらさげられた馬のように、懸命に手足を動かす。ここでは、労働組合は駁者の助手である。トヨタでのもうひとつのスローガンは、「ムダをはぶけ」である。もちろん、人間のムダが最大の問題である。コンベアにはムダな人間はひとりもいない。だからトイレへいく自由まで奪われている。交替要貝はとうの昔に省かれてしまった。産業ロボットに替えられるまで、彼らはムダのない正確無比な動作を繰り返す。そして、いつもつぎの点をさかんに監視しあっているのだ。
Aさんがトヨタにきたのは、一九六九年の秋である。中学校を卒業して、二年ほど郷里の北海道ではたらいていたのだった。合板工場でニつすく削られた板の節目をノコで切り落とし、その穴を埋める。そんな仕事だった。毎日の単調な生活は、どこか遠くの見知らぬ土地ではたらくことを夢みるようにさせていた。なにかもっとちがう、もうすこし華やかな生活があるはずだ。そんな想いに捉われるようになっていたのである。
新聞広告をみて、町の職安へでかけたのは、クルマが好きだったからでもあった。埃まみれの合板工場よりも、きらびやかなクルマをつくりだす工場の方が若者にとっての魅力だった。その日、トヨタの採用係と面接したのは、Aさんひとりだった。家をでるとき、彼のポケットにはいっていたのは、四万円だった。函館にでて連絡船に乗る。津軽海峡をわたって青森から東北本線に乗りかえ、東京からは新幹線である。新幹線ははじめての体験だった。隣りあわせに座ったのは、まったくの偶然だが、やはりトヨタの見習い工として採用された二〇歳の青年だった。名古屋への二時間、窓の景色を眺めながら、ふたりはすこしずつ自分たちのことを話しあった。はいってまもなく、彼はやめてしまったのだが……。
改札口をでてすぐそばの壁画のまえが、集合場所である。トヨタの旗をもっか人事部勤労課の係員が、頃あいをみはからって、外にまたせたトヨタのバスに誘導する。わたしもそれとおなじ経験があるので、よくわかるのだが、名古屋から豊田心への丘を越えてくねりながらつづく道は、はなはだ心細いものである。
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