2013年3月30日土曜日

自分のフィールドを持つ

街でスナップ写真を撮るときも、相手が気がついたら「ありがとう」と言ったり目礼をするのが礼儀です。撮られることが不本意で拒否の意思表示があったときは、素直にしたがいましよう。アメリカでは写真家が街でスナップ写真を撮っても、その場でその人の使用許可のサインを取っておかないと、使ったときに人権侵害で訴えられることもあるそうです。スナップショットのショットには、撃つという意味もあります。ところかまわぬ乱写は、乱射に通じます。弾丸こそ発射されませんが、人を傷つける凶器にもなります。カメラは使い方しだいで、毒針にもなれば正義の剣にも慈母の目にもなります。写真を撮るには、それなりの責任がともないます。カメラを毒矢や狙撃銃にしないよう、特に公共の場所でのマナーには気をつけたいものです。

写真を長く楽しむためには、身近にカメラを向けたくなるような場所があるのがいちばんです。お気に入りの。狩り場”あるいは。畑”といったら大げさすぎるでしょうか。そこに行けば、ともかく獲物がいる、美味しい野菜がある、必ず何かしら面白い被写体がある、いい写真が撮れそうな予感がする、そんな場所です。いつも子供と遊びに行っている児童公園、毎日のように買い物に行く商店街、歩きなれたハイキングコース、若者たちでにぎわう週末の繁華街どこでもいいのです。

わが家の近所のお寺の境内は、四季折々、さまざまな表情を見せてくれます。満開の桜の下をそぞろ歩く花見客、木陰で涼みながら読書にふける学生さん、落ち葉の上を走り回る保育園児たち、雪合戦に興ずる子供たち。出かけるたびに目新しい光景に出会えるので、ついつい足が向いてしまいます。気がつくとアルバムは、目で見る俳句のような写真でいっぱいになっています。いずれも駄句ばかりですが、これからもこの畑を耕しつづけ、もっともっと美味しい野菜が採れるのを楽しみにしています。

前にも書きましたが、東京・八王子市にある高尾山も、わたしにとっては大事なフィールドの一つです。最初は健康のための山登りでしたが、あとからくる「ウサギ」たちに次々と追い越されるうちに、「カメ」の言いわけにカメラを持ってゆくことを思いついたのでした。そうするうちに、いつしか高尾山は筆者のアトリエ、わがフィールドになっていたのです。わたしにかぎらず、自然派といわれる写真家たちは、例外なく自分のフィールドを持っています。私の友人である桜井保秋さんは東京・羽村市に住んでいて、奥多摩地方に古くから伝わる祭りや行事を撮りつづけていますが、彼がもっとも力を入れているのは玉川上水の写真です。

この用水路は。。いまから三百五十年前、江戸の水不足を解消するため、奥多摩の山々から流れ出す多摩川の水を、羽村から四谷の大木戸まで引こうと計画されたもので、武蔵野を突っ切る四十三キロを、わずか八ヵ月たらずで掘り上げたといわれています。この玉川上水は、いまでは都会の風景の中にすっかり埋没し、ごく一部に面影をとどめるだけとなりました。雑木林をぬって流れる小さな流れに羽を休める水鳥たち、土手は野草の宝庫です。川沿いの遊歩道は都会で生きる人たちの憩いの場になっています。桜井さんは、いまや筋の自然となり果てた玉川上水をフィールドに、季節の移ろいをカメラに納めています。