2015年4月6日月曜日

華やかな工場への夢

これまでの社長演説でも、たいがい「困難」を説き、「挑戦」をアジつてきた。工場での毎日の朝社でも、「困難」と「挑戦」があらゆる職場の職制から演説され、日本一の儲けがしらであるトヨタの賃上げの回答もまた、きたるべき「困難」に挑戦するために内部留保を厚くする、との名目で抑えられてきた。そしてついに「全面戦争」の時代を迎えたのである。一億の火の玉となって、欲しがりません勝つまでは、撃ちてしやまん、そんなような精神主義が繰り返し、繰り返し唱えられているのである。

トヨタでの労務管理の特徴をひと口でいうと、「鼻先にニンジン」ということになる。コンペアに縛りつけられた労働者たちは、「世界戦争に勝つ」の大号令のもとで、鼻先にニンジンをぶらさげられた馬のように、懸命に手足を動かす。ここでは、労働組合は駁者の助手である。トヨタでのもうひとつのスローガンは、「ムダをはぶけ」である。もちろん、人間のムダが最大の問題である。コンベアにはムダな人間はひとりもいない。だからトイレへいく自由まで奪われている。交替要貝はとうの昔に省かれてしまった。産業ロボットに替えられるまで、彼らはムダのない正確無比な動作を繰り返す。そして、いつもつぎの点をさかんに監視しあっているのだ。
 
Aさんがトヨタにきたのは、一九六九年の秋である。中学校を卒業して、二年ほど郷里の北海道ではたらいていたのだった。合板工場でニつすく削られた板の節目をノコで切り落とし、その穴を埋める。そんな仕事だった。毎日の単調な生活は、どこか遠くの見知らぬ土地ではたらくことを夢みるようにさせていた。なにかもっとちがう、もうすこし華やかな生活があるはずだ。そんな想いに捉われるようになっていたのである。

新聞広告をみて、町の職安へでかけたのは、クルマが好きだったからでもあった。埃まみれの合板工場よりも、きらびやかなクルマをつくりだす工場の方が若者にとっての魅力だった。その日、トヨタの採用係と面接したのは、Aさんひとりだった。家をでるとき、彼のポケットにはいっていたのは、四万円だった。函館にでて連絡船に乗る。津軽海峡をわたって青森から東北本線に乗りかえ、東京からは新幹線である。新幹線ははじめての体験だった。隣りあわせに座ったのは、まったくの偶然だが、やはりトヨタの見習い工として採用された二〇歳の青年だった。名古屋への二時間、窓の景色を眺めながら、ふたりはすこしずつ自分たちのことを話しあった。はいってまもなく、彼はやめてしまったのだが……。

改札口をでてすぐそばの壁画のまえが、集合場所である。トヨタの旗をもっか人事部勤労課の係員が、頃あいをみはからって、外にまたせたトヨタのバスに誘導する。わたしもそれとおなじ経験があるので、よくわかるのだが、名古屋から豊田心への丘を越えてくねりながらつづく道は、はなはだ心細いものである。