2014年6月18日水曜日

「強蓄積」メカニズム

中国における集権的計画経済から市場経済への転換は、たしかに「世紀の実験」というにふさわしいドラマである。この転換を、中国はどのように試みてきたのであろうか。転換の軌跡を追うことは容易ではないが、興趣のつきないテーマである。毛沢東時代の集権的計画経済のメカニズムがいかにして形成され、そして「自己破壊」していったのか。

どのような経緯を経て、計画経済のメカニズムが新しく市場経済のメカニズムへと転換していったのか。本章では、その論理を追ってみたい。論点の中核は、「蓄積メカニズム」である。第一次計画期(一九五三~五七年)以来、長きにわたり中国経済の中核に位置してきたのは、「全民所有制単位」すなわち国営の重工業部門であった。重工業化を通して貧しい農業国段階を脱し、豊かな社会主義国家をいちどきに実現することがめざされたのである。

旧中国の「半封建・半植民地」の「負」の遺産を継承し、かつ狭小な耕地に過大な人口を押しこんだいちじるしく貧困な農業国として出発した新中国が、そうした「初期条件」を顧慮することなく急速な重工業化をめざしたことは、顧みて無謀な試みであった。しかし、中国は国共内戦に淵源をもつ米中対決、一九五六年のソ連共産党大会におけるスターリン批判によってはやくも露わとなった中ソ対決という、超大国とのきびしい政治的・軍事的緊張下で建国を進めざるをえなかったのである。

往時の中国の指導者が、重工業化を通してみずからを強国たらしめぬ以上、革命の成果を守りぬくことができないと認識したのには、無理からぬものがあった。農民大衆運動を通して社会主義中国を掌中におさめ、強大な権力を一身に集めた毛沢東の純粋で空想的な社会主義観が、そうした「急進主義」を生んだもうひとつの要因であった。

国民経済の圧倒的部分を低生産性の農業が占めるという初期条件のもとにありながら、なお重工業化を急速かつ大規模に展開しようというのである。そのための資源を求むべきさきは、いかに低生産性とはいえ、農業部門以外にはなかった。

2014年6月4日水曜日

信託の終了

信託財産の管理や運用をしていくうちに、財産の形が初めと変わったり、増えたり減ったりすることがあります。たとえばおカネを受け入れて、それで株式や社債を買った場合とか、建物の信託を受けて、それが火事で焼けて火災保険金を受け取った場合などで、これらもすべて信託財産であり、もちろん信託法の保護を受けるわけです。

一方、受託者は信託財産を忠実に管理し、その増減や変更を記録した帳簿を備えて、いっでも委託者や受益者などに対して財産の状態を説明できるようにしておかなければなりません。ただし、受託者の管理が適当でなかったために、信託財産に損害を与えたときとか、受託者が委託者との約束を守らないで勝手に財産を処分したようなときは、委託者や受益者は損害の賠償や処分の取り消しを受託者に請求することができます。

信託は信託契約に定めてある目的が実現したり、契約の期間が終わったときになくなります。たとえば、子供の学資金に充てるための信託は、その子供が学校を卒業すれば目的が終わるので、信託は終わります。また五年とか十年とかあらかじめ信託の期間を定めておいたものは、その期間がたてば信託は終了します。もっとも、いろいろの事情で、途中で信託を続けていくことができなくなって終わることもあります。たとえば、不動産の信託で建物が火事で焼けてなくなってしまったような場合です。そのほか、委託者自身が受益者であるときは、信託の契約を解消することができます。しかし、以上のようないろいろの理由から信託が終わっても、受託者が受益者に信託財産を引き渡してしまわないうちは、まだ信託は続いていると見なされます。

したがって信託は、実際には信託財産の返還によって終わるといえます。なお、受託者は原則として途中でその任務を辞退することはできません。そして、もしやむをえない事情でやめるとき、または受託者に不都合があって裁判所の命令によってやめさせられたときは、頼まれた信託の仕事を他の新しい受託者に引き継ぐことになっています。したがって、受託者の方の都合によって信託が終了するということはありません。ただし、証券投資信託と貸付信託の無記名式証券の場合、信託期間が満了して相当年月がたって受益者(証券の持ち主)がわからないときは、委託者または受託者がこれを整理して信託関係を終了させることができます。

なお、信託法には、信託の期間についてなんら定めていませんが、永久とか千年といった非常識に長い信託は実際には無効といわれています。特に、イギリスでは永久信託をはっきり禁止する規定があります。そこで実際は、せいぜい五十年とか百年とかの信託が一番長いとされています。