2014年11月6日木曜日

アジア諸国に産業革命

たまたま近年、日本周辺のいくつかのアジア諸国に産業革命が続発し、それら諸国は近代化・産業化への道を歩み始めた。これまで近代化・産業化は、日本を唯一の例外として、もっぱら西欧的・欧米的な事件だったから、「アジアの時代」の到来は、たしかにこれまでの歴史の常識に対して、書き換えを迫るたぐいの大事件である。

これまで、近代化・産業化は、白人だけに可能な事柄であり、非・白人として唯一それに成功した日本は、せいぜいのところ、非常な変わり者とみなされてきたにすぎない。知識人がしばしば口にする「日本特殊性」論とは、究極のところそういうことだろう。ところが「アジアの時代」の到来は、それを実行できるのが、けっして日本人だけではないことを実証した。そこに、日本の前例が大きな励ましとなっていることは、ほぽ疑問の余地がないだろう。

しかしその点は(とくに、人種問題のようなデリケートな問題は)、日本人がことさら大声で言い立てるべきことではないだろう。私たち日本人は、それを胸の奥底深く秘めて、ひそかな誇りとすれば足りる。とくに既成勢力である白人にとっては、それは非常に気になる事柄であり、できることならばいちばん触れられたくないことかもしれない。また、非・白人であるアジア諸国の人たちにとっても、日本が「よき前例」だなどと言っては、彼らのプライドを傷つけるかもしれない。

いずれにしろ、こうして、アジアに対する人びとの関心は、いまや高まりに高まっている。いまから四半世紀あまり前、私が一年間インドネシアに住み、その政府で働くという形で、最初の「アジア体験」をしたころには、たとえば日本の書店には、アジア関係の本などほとんど並んではいなかったし、雑誌の編集者などは「『アジア特集』は絶対に売れない」と言うのが常だった。それも悲しかったが、それとは様変わりの近年のアジアーブームも、私は手放しで喜ぶ気にはなれない。なぜならそれは、あまりに唐突で、バブルの臭いがするからである。

とくに気になるのは、アジアで大きな力を持つ中国系の華僑資本が、言わば商業資本的で、短期間での資本の回収を重視しすぎるところである。したがって、商業やホテル・不動産関連のプロジェクトはスムーズに伸びるけれども、資本の回転期間の長い製造業などは、どちらかと言うと不得手とする。ひとくちで言うと、それは「拝金主義」的に過ぎる。カネにまったく関心がなくては、産業革命は起こせないが、他方、カネに対する関心が強すぎても、うまく行かないのではないか。