2015年3月6日金曜日

異常な低金利政策

大蔵相代理会議でも議題に上った日本経済のパフォーマンスが、ここで問題になる。円安・株安に象徴される平成不況第二幕の構造と処方箇について、日本国内のおおかたのコンセンサスは、次のようなものであったろう。

90年代後半の不況は、「橋本デフレ」とも称されるように、97年に3%から5%に消費税率を変更し、特別減税を廃止、さらに医療費の患者負担分を増額するという財政再建路線の貫徹によって、9兆円の負担増をもたらしたのがそもそもの原因である。97年を例にとると、景気実勢は0.7%のマイナス成長、加えて不良資産の滞留による金融不安があって、日本経済そのものの信認が問われている。したがって、その処方瀋は、内需主導による安定成長のための減税と不良債権の抜本的処理でなければならない。

政府もまたこうした議論を受け入れる形で、9兆円分を国民に還元すべく、28兆円の公共投資を行い、さらには恒久減税をも視野に入れた財政政策を打ち出すにいたった。協調介入に先だって、サマーズ副長官が大蔵省の榊原財務官に提示したといわれる「条件」も、同一線上の処方箋であったろう。

しかしながら、28兆円の景気対策に株式市場が反応を示さなかったことからも明らかなように、減税が景気の回復を促し、株安・円安の悪循環に終止符を打つであろうという予測にはまったく根拠がなかった。もし、株式市場が反応するような景気対策ということであれば、それはおそらく30兆、50兆といった非常識な金額を想定するしかなかった。財政状況から見て不可能であったし、仮に実行したとして、今度は米系格付け機関が日本国債のさらなる格下げを宣言する結果となったであろう。

90年代後半にいたって深刻化した平成不況第二幕の主役は、じつは0.5%の公定歩合を3年近くも続けている異常な低金利政策であった。95年9月、日銀が公定歩合を0.5%にまで引き下げた時点では、それはあくまで過度の円高に対する緊急避難的な色合いが濃かったが、その後円安の行きすぎが問題になっているほどなのに、金利を引き上げ、是正する動きは容易に具体化しなかった。

国民経済計算から算定すると、95年からの低金利によって、およそ年間10兆円の金利所得が消えていることになる。その性質からして消費に回りやすい金利収入が、GDPの2%も消失している。そのための消費の低迷であることに、全く関心が払われないのは奇妙なことであった。また、いっそう重要なことは、公定歩合があまりに低いため、長期債の利回りが1.1%にしかならず、金利裁定も働かないため、国内の資本が外国資産に向かわざるを得なかったという点である。そこで円か売られてドルが買われる。円安の背景には、低金利を嫌う国内資金の対外流出があったのである。

その意味では、金利の正常化こそが、円安にも、また長期にわたる不況に対しても、もっとも有効な処方箋であった。なぜ、この異常ともいえる低金利が、長期間、放置されてきたのか。目的が教科書にあるような古典的な景気対策ではなく、不良債権に苦しむ銀行などの金融機関を救済すること、その一点にあったことはすでに誰の目にも明らかであろう。そしてここでは同時に、次のような事情にも目を向けておく必要があるように思われる。

先の日米の財政当局者の話し合いのなかで、日本の金利政策が話題に上った気配はまったくなかった。80年代後半に行われた「政策協調」の事実から察せられるように、アメリカ側にとって、日本の高金利への転換は歓迎すべからざる事態であったことに変わりはない。

しかし、80年代の日米間の内外金利差と、形は同じでも日本側の事情が違う。95年以降、アメリカ国債が、日本にとって、いわば売り手市場の商品となっていたことは、日米経済の再逆転がここに定着してしまったことを、何よりも端的に象徴している。いつの間にか、不況下の大債権国・日本は、ふたたび債務国アメリカの資金循環の回路に組み入れられていた。このたびは、自らが施行した超低金利政策の代償として、ではあった。