2015年12月5日土曜日

中国の共産党の危機意識とは

記事は銀行の管理が少しずつ国際化しつつあるとも書いていたが、管理の国際化は、商品の製造工程では、さらにきびしく要求されている。ヨーロッパ諸国では域内の商品の流通を円滑にするために、一九八七年に工業製品の新しい規格IS09000を決めたが、その規格に合格していないと、国際的な商品取引から締め出されるケースが増えてきた。その規格は、たんに商品の性能や寸法や材質などを指定するだけでなく、企業に対して、商品が設計され製造されている過程や、売られた後のアフターサービスまで記述し、それぞれの部門の責任者名まで明らかにした書類を提出することを求めている。
 
私はこれまで、中国における生産管理の遅れと、その経済的影響について、くりかえし述べてきたが、IS09000は、設計やアフターサービスまで含めて、その生産管理の全貌を開示することを求めているのである。こうなると、商品の規格が指定にかなっていても、その製造の仕方に問題があると、その商品は規格外とされてしまう。企業は従業員の作業のやりかたから、各機械・装置の実際の運転状況に至るまで、それらを再点検し、全工程のバランスを真剣に見直さなければならなくなる。
 
中国政府は、一九九二年に、輸出商品に対して、このISO規格を広く適用すると発表した。一九九四年あたりから、まず外国資本系の企業などが、次々とIS09000を取得しはしめた。実際には、ISO規格にかなっているかどうかを審査する機関が中国に設立され、審査には中国人があたる。だから、書類作りがうまいだけで、合格することがないでもない。しかし、それにしても、企業は設計からアフターサービスに至るまで、自分たちが何をどのように開発し、生産し、販売してきたかを、綿密に検討しなければならなくなるから、IS09000は、中国の生産管理の発展に強力な刺激を与えたことであろう。
 
中国経済が発展すればするほど、欧米や日本の大企業がイニシアティブをにぎる世界経済に組み込まれざるを得ず、中国経済は企業の職場での一挙手一投足から、欧米に似た組織と行動とに変貌して行かざるを得なくなる。それが出来るか出来ないかが、中国経済の将来を決めてしまう。中国の共産党と政府の首脳部は、強い危機意識を抱いた。一九九七年の中共十四期五中全会で、李鵬政治局員はこう演説した。

2015年11月6日金曜日

条約を結んでは破棄するといった歴史

ケインズ流の経済政策は超インフレと高い失業率を解消するのに極めて有効であったし、その初期の軍事的成功はドイツ人のナショナリズムの高揚と利権拡大に大きく寄与したことは否めない。だが、ドイツの敗色が濃くなり、バラ色の未来から一転して悲惨な現実が突きつけられるようになると、ドイツ国民はヒトラーに疑念を抱くようになる。前線の兵士から母親のもとへ「僕たちはヒトラーにだまされていたんだ」という手紙が届いたり、ドイツ国防軍によるヒトラー暗殺の動きも出てくる。つまり、契約で約束された内容と現実がまったく違っている、契約違反ではないか、という疑念が芽生えたのである。契約はもしその内容にうそや違反があれば、なんら良心の呵責なしに、無節操とのそしりも受けずに破棄できるのである。だからこそ、西欧列強は条約を結んでは破棄するといった歴史を繰り返してきたのだ。

破棄する理由など探そうと思えばいくらでも見つけられるし、理由さえあれば何の躊躇もいらないのである。ましてナチスはアウシュビッツ隠しをはじめとして言い逃れできないうそや暴挙を行なっていたのであるから、ドイツ国民もまた何の躊躇もなく「自分たちはヒトラーにだまされていた」という理屈で堂々と自己正当化できるのである。ドイツ国民はヒトラーとの契約を虚偽であるとして破棄して、戦後新たに西ドイツ国民はアデナウアーとの間に、束ドイツ国民はウルブリヒトとの間に契約を結んだわけだ。むろん契約内容は前者が自由主義、後者が共産主義である。しかし、共産主義の契約内容は虚偽であるとして、それを破棄して西ドイツに逃げ出す国民が多数いたことは周知の事実である。

2015年10月6日火曜日

都市計画法の線引き

宅地開発要綱の制定は、高速道路の地下化とともに、企両調整局の生まれた最初の年に行なった二つの大きな仕事だった。これが市の強い姿勢のもとに、とにかく動きだす。その後の一二年間のあいだに、これによって市のうけた財政的利益だけでも、計算方法にもよるが、三〇〇〇億円を超えるだろう。もし、こうした制度がなく、法令どおりでやっていれば、市は完全に破産したか、すべての事業をストップせざるをえなかったところであった。

線引きの実情とは総合土地調整のチームにとって、次の大問題は、昭和四四年から施行された新しい都市計画法による「線引き」であった。「線引き」とは、昭和四四年から施行された都市計画法により、市街化を促進すべき「市街化区域」と、市街化を抑制すべき「市街化調整区域」の二つに区分しようという制度である。「線引き」は、わが国の土地利用法制史上、初めて実効ある手法をもちこんだ点で、問題点はあるものの評価すべき制度である。私権さえあれば、どこでも開発できるという野放しの土地利用に、歯止めをかけようというものであった。

こうした法律は、いつもそのあとで制定される政令、省令、そして主務官庁である建設省からだされる通達にょって運用され、せっかくの制度も有効活用ができず、地域に応じた戦略論や政策論のない機械的な適用になってしまう。他のほとんどの自治体では、そうした形で線引きが進行していた。というのは、所管する部局は、。建設省の都市局系列にあり。自治体内ではタテ割りの一部局にすぎないから、都市全体としての戦略論、政策論をもちえないし、また他部局からも口がだせない。

といって市の上層部も、主務官庁の通達にもとづいて行なっていれば、もっとも無難であり、これまた政策論をもたず、タテ割り部局の案に、若干の政治的妥協を加えるだけで、政策としての議論がされないままになってしまう。むしろ中央官庁の基準が、見とおしのない無秩序の政治的な圧力を、最低水準ながら防いでいるともいえよう。

このとき、もし横浜市がなんの政策ももたないで、建設省通達で線引きを横浜市の線引き戦略とすると、市内のごく一部をのでいて九〇%以上は市街化区域になってしまっただろう。すでに横浜市は東京方面からの鉄道、道路が何本も入っているし、まとまった大きな山地もない低い丘陵で、物理的にはどこでも開発可能だったからである。

2015年9月5日土曜日

新商品開発力の格差

新商品開発力の格差を、単に金融技術力の差として捉えることはできません。私の出身銀行をふくめ邦銀の金融技術力や人材の質はあまり遜色がないのですが、外資系の強味は、シカゴのトレーダー、ヘッジファンドのマネージャーなどを含むグローバルな市場参加者とのネットワークを築き、彼等との日常的なコンタクトを通じて、どのような商品にはどこでニーズがあるかを知り、それをデザインし、商品化し、在庫管理できる総合力にあると思います。また資本配分の機能をもつ債券市場での大規模な取引で得られる情報の質と量は、米系投資銀行の競争力優位の基盤になっていると思います。

同氏はその才能と人柄を惜しまれながら急逝した。「米系投資銀行と邦銀とでは、プロと草野球ほどの違いがある」と断じるC氏は、邦銀で役員を勤めた後、著名な英国マーチャントーバンクの日本代表を経て、米国投資銀行Yの日本法人社長となった。それゆえ、以下に紹介するマーチャントーバンク、米国投資銀行、そして邦銀の比較論は、彼の実体験に裏づけられている。

英国のマーチャントーバンクが、相次いで外資の軍門に降ったのは、グローバルなレベルで競争する意欲、資質が経営者に欠けていたからです。ビッグバン以降、自由化、国際化が進展するなかで、彼等は適切な施策を講じませんでした。マーチャントーバンクは過小資本で、大きなリスクをとれなかったのです。

また、債券部門、とくにトレーディング部門が軽視され、新しい金融商品の開発力の弱さにつながったと思います。デリバティブに対する認識やリスク管理能力も著しく低いものでした。企業体として管理・組織面の弱体、コンピューター化の遅れなども目立ちましたね。

大陸系金融機関は資本力を生かして買収を積極的に行い、経営の中核に市場部門のプロを据えるなど企業文化を大胆に米国型に変えつつ、総合金融サービス機関へ脱皮しています。本邦金融機関は、不良債権処理に追われて、まだグローバルな戦略を描くまでに至らないが、大陸系金融機関の戦略に学ぶべきだろうと思います。

2015年8月6日木曜日

スーパー地銀の誕生

前置きが長すぎたかもしれない。日本の金融市場における外資の動向を見る前に、まず検証しておかなくてはならないのは、九〇年代半ばになって、ふたたび加速し始めた新たな金融再編の流れであろう。

九八年四月六日、全米第二位の銀行持株会社シティコープとトラベラーズーグループとの対等合併が発表された。トラベラーズは、損害保険、生命保険、投資銀行業務、リテールの証券業務などを行う企業が、合併や買収などで一体化し形成された、多様な金融サービスを提供する企業体であり、金融コングロマリットと呼ばれる。

これによって、八〇年代半ば以来、内容はともかく資産規模だけは世界最大という日本金融機関の地位も失われた。シティコープのリード会長とトラベラーズのワイル会長という米国金融界の大物二人ががっちりと手を握る写真、そして同じ頃、貸渋り問題で国会に呼び出されて無気力に一斉に頭を下げている大手邦銀の頭取たちの写真が新聞に載っているのを眺めたとき、世界的にうねりをみせる金融再編成の波の中で、日米金融機関がおかれている立場の違いをまざまざと感じさせられたものである。

当時、トラベラーズは、ソロモンを買収して傘下のスミスバーニーと合体させたばかりであり、その余勢をかって日興謐券の中核部分まで手中に収めてしまった。その翌週には米銀上位十行中の四行を巻き込む二件の合併が発表された。

まずカリフォルニアのバンカメリカ(アメリカ銀行の持株会社で九九年四月に「バンクーオ リブーアメリカ」と改称)とノースーカロライナのネーションズ・バンクの合併によって、マクファーデン法(州際業務規制)で分断されていた米国の金融システムの中に、預金量全米第一位、総資産五七〇〇億ドル、株主資本四五〇億ドルの全国規模の銀行が誕生することになった。

2015年7月6日月曜日

行動経済学の視点から見る為替レート

日本企業は過去何度となく、厳しい試練にさらされる中で競争力をつけてきた。円高ということでいえば、1985年のプラザ合意以降の時期との比較が面白い。当時、わずか3年ほどの間に円ドルレートが約250円から約125円にまで円高になる中で、日本企業は必死になって海外生産にシフトしていった。あのときのグローバル化への取り組みなくしては、国際市場における今の日本企業の存在はありえない。苦しい中で勝ち取ってきた競争力であるのだ。金融危機という大変な事態に直面して、世の中の関心は金融業に集中しがちだ。しかし、製造業、とりわけ輸出型の製造業も大きな脅威にさらされている。ただ、この脅威を乗り越えてこそ、より国際競争力を持った企業となるはずだ。

人間の心理を考慮に入れながら人々の行動パターンについて研究する分野を行動経済学と呼ぶ。人々の経済行動は、伝統的な経済学で想定されるほどには合理的ではない、というのが行動経済学の指摘である。人々は複雑な合理的計算をしながら経済行動を決めているわけではない。多くの場合には単純な行動原理に基づいているというのだ。要するに人々は超合理的ではないが、予測可能な程度に非合理なのである。たとえば、あるレストランのメニューに3000円と5000円のおすすめワインが載っていたとき、どちらも同じ程度に売れていたのに、それに7000円のワインが加わると5000円のワインがよく売れて、3000円のワインの売上が落ちるという。人々はワインの値段と品質を比べて選んでいるというよりは、メニューの中の他のワインとの比較で考える傾向がある。

他の商品の料金との比較で考えている人が多いので、メニューの中にどのような選択肢があるのかということが、その人の行動に影響を及ぼすのだ。為替レートの動きに対する産業界の反応を見ていると、この行動経済学の原理が思い浮かぶ。この文章を書いている当時(2010年7月)、円高の動きが顕著になってきて、1ドル80円台中ごろの水準にも届きそうな勢いであった。マスコミは、日本は15年ぶりの円高であると騒いでいた。15年前といえば円ドルレートが80円を切る水準にまでなった年である。それ以降はそんな円高は経験したことがない。だから大変だと産業界も警戒する。過去に経験した80円というレートが比較の対象となって、現在の為替レートもそれに近いと認識されているのだ。

しかし、冷静に考えれば、現在の80円と15年前の80円とはまったく違ったものだ。この15年間に米国の消費者物価はおよそ40%上昇しているのに対して、日本の消費者物価はほとんど変化していない。つまり同じ80円であっても、実質為替レートで見れば、現在の円ドルレートは15年前に比べて30~40%前後円安なのだ。名目為替レートは同じような水準であっても、米国の物価や賃金などは40%ほど高くなり、その分だけ日本企業の競争条件は有利になっているのだ。

それでも円はドルに対して少しずつ高くなっており、ユーロの為替レートも下かっており、1年前、あるいは2年前に比べてみればかなりの円高になってきている。ただ、それは数年前があまりに円安であり、そことの比較で相対的に円高になったのにすぎない。ここでも行動経済学の原理が働いている。少し前に経験した1ドル=100円とか110円という数字が私たちの頭に刻み込まれ、それとの比較で80円台の数字が非常に円高に見えるのだ。さて、今後の為替レートはどうなるのか、予測することはできない。ただ、本当の意味で超円高になっているわけではないことは認識しておく必要がある。グローバルマネーの動きによってはさらなる円高も可能性としてはあるのだ。

2015年6月5日金曜日

業務の属人化

「同期とは今でも2ヵ月に一度は飲みに行きます」と言う。彼は2009年卒で、氷河期のさなか、やっと決まった就職先だった。気のおけない同期にも恵まれ、順風満帆に見えた社会人生活の始まりだったが。「入社して、営業部の課長の下に配属になりました。60歳ぐらいの方です。当然、色々仕事をやっていくものだと思っていたら、入社当日からなにもないんですよ。本当になにもない。仕事を振られるわけでもないし、なにか指示されるわけでもない。ぽんと、ただひたすら自分の席に座ってる状態ですね。朝会社に行くと取引先からFAXがきてるんです。自分が一番下っ端なので、まわりに配る。仕事って言えばこれぐらいです。こんな状態が、毎日続きました。

『なにかお手伝いできることないですか?』つて課長に聞くんですけど、毎回『今はない』『特にないな』つて言われちやうんです。課長本人も、いつも定時にはササーツと帰ってましたし、かなり暇してたんじやないでしょうか。そんなある日、事件が起きました。違う課の30歳ぐらいの先輩が『色々やらないと覚えられないからね』つて仕事を振ってくれたことがあったんです。ちょうど入社したばかりで、私自身担当の仕事もなかったし、喜んで引き受けました。お昼ごろ、その先輩からもらった仕事を処理してたら、私の上司である課長が来て『なにやってんだ』つて聞くんですよ。『○○さんから頼まれた仕事をしていて』つて説明したら、急に課長が怒り始めたんです。

フロア中に響き渡る声で、その先輩に向かって『俺の部下に勝手に指示するんじやない。自分の仕事を押し付けてサボるつもりか』つて。一瞬で社内が凍りつきました。『俺が指示した以外の仕事はするな』つて、私もこっぴどく怒られました。上司は、普段はどちらかというと穏やかなおじさん。そんな人があんなふうに怒鳴るなんて、本当に驚きました」しかも、事態はこれだけでは終わらなかった。「それ以来、まわりの先輩達が私に仕事を振りづらくなっちゃったんです。ただでさえ新人で、担当業務もない状態だったのに、まわりから何も教えてもらえなくなってしまって。

その先輩も、忙しかったっていうのもあるだろうけど、私に仕事を押し付けてサボろうとしてたわけじゃなくて、仕事がないのならなにかさせたほうが本人のためだろうからって気持ちで仕事を任せてくれたんだと思うんですよね。それがこんなことになるなんて」「俺の部下に勝手に仕事を与えるんじゃない」と課長がキレたエピソードは、まさに「他部署のことは関係ない」「自分の仕事さえやればいい」という見えない壁が存在する縦割り組織を象徴する出来事だ。海保さんが他部署の仕事を手伝う行為は、よくよく考えてみれば、そこまで問題があるとは思えない。海保さんは暇を持て余している状態だったし、上司もそのことを把握していた。むしろ他部署にとっては業務の負担を分担できるということであり、海保さんにとっては絶好の実地教育を受ける機会にもなったからだ。ずっとではなく一時的であれば、他部署の手伝いをさせてもかまわなかったのではないか。

しかし、縦割り体質の組織内では、こんなちょっとした他部署の手伝いだったとしても、大きな問題になってしまう。また、海保さんはこのようにも語る。「専門商社は個人商店の集まりみたいなものですから、どうしても各個人の得意分野ができてしまって、それ以外のテリトリーのことはやらない、まわりのことは全然知らない状態になっちゃう部分もあります。『あの人の担当商材は△△』『あの人は○○と口□』ということぐらいは分かるんですけど、具体的にどんな仕事をしてるかっていうと全然分からない」個人が業務を抱え込んでしまい、他者が関与できない状況にあることを、業務が属人化している状態と呼ぶ。

2015年5月11日月曜日

「武力攻撃事態」と首相の戦争権限

すぐみるとおり、有事=防衛出動のみではない。もっと広く適用される。「有事法制研究」は、一九七七年八月、福田内閣の時代、三原朝雄防衛庁長官の指示で開始された。「日米防衛協力の指針(旧ガイドライン)」がはじめて作成された(一九七八年)のと同時期である。防衛庁公表文(一九七八年九月一二日)は、次のように述べている。研究の対象は、自衛隊法第七六条の規定により防衛出動が命ぜられるという事態において自衛隊がその任務を有効かつ円滑に遂行する上での法制上の諸問題である。問題点の整理が今回の研究の目的であり、近い将来に国会提出を予定した立法の準備ではない。

現行憲法の範囲内で行うものであるから、旧憲法下の戒厳令や徴兵制のような制度を考えることはあり得ないし、言論統制などの措置も検討の対象としない。今回の研究の成果は、ある程度まとまり次第、適時適切に国民の前に明らかにし、そのコンセンサスを得たいと考えている。そこでは、あくまで「現行憲法の範囲内」での作業であること、また「外部からの武力攻撃に際して」の対処であること、さらに「研究」であって法制化の意図はない、と強調された。その後、進展状況につき八一年四月と八四年一〇月に中間報告が発表されたが、この間、国会における論議は散発的な質疑がなされたていどで、有事法制論議は以後二〇年間、封印された状態にあった。

だが、一九九七年九月、日米間で共同作戦の基盤となる「新ガイドライン」が合意され、実効性を確保するための国内法「周辺事態法」が九九年五月に成立すると、「有事法制研究」は日米同盟のあらだなよそおいの下で法制化へ動きだす。新ガイドラインに、周辺事態における自衛隊の「対米後方地域支援」任務が新設されたためである。それとともに新ガイドライン別表は、米軍による「民間空港・港湾の一時的使用」けじめ輸送・医療・給水など広範な「地方公共団体と民間企業」の協力事項も盛り込んでいた。これを受け周辺事態法第九条には、地方自治体と民間に対する国の指示権が規定された。米軍・自衛隊一体となった新活動は、地域と民間にあらたな戦争基盤をつくりだし、協力体制を整備してはじめて成り立つ。それが二人の首相の施政方針演説に反映されるのである。

「有事関連法案」は、二〇〇二年国会に「武力攻撃事態法案」「国家安全保障会議設置法改正案」「自衛隊法改正案」の三法案として提出された。核心となるのは「武力攻撃事態法案」である。そこに盛られた「武力攻撃事態」という新概念の定義が論議の焦点となった。武力攻撃事態法案には、この用語が三とおりの意味で用いられる。武力攻撃一我が国に対する外部からの武力攻撃、武力攻撃事態武力攻撃が発生する明白な危険が発生していると認められるに至った事態、武力攻撃予測事態一武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態。以上三つをまとめて「武力攻撃事態等」という。

もはや「防衛出動が命ぜられるという事態」のみが有事ではないと理解できる。有事の定義を時間・空間ともに拡大させただけでなく、それらを「等」で一括し、すべてに適用させる融通性をもたせたことに大きな特徴がある。まだ七八年の説明範囲だが、加えられた新ケースも、「武力攻撃事態等」に入るので、政府は対応権限を行使できることになる。幅広い「国家緊急権」の掌握である。「予測事態」とは、時間的には「武力攻撃」発生前の段階から動き出す事態、また地理的には日本領域以外で発生した事態と受けとめられる。それがすぐさま「我が国に対する直接侵略」(自衛隊法第三条)や「外部からの武力攻撃」(同七六条)につながるとはかぎらない。

2015年4月6日月曜日

華やかな工場への夢

これまでの社長演説でも、たいがい「困難」を説き、「挑戦」をアジつてきた。工場での毎日の朝社でも、「困難」と「挑戦」があらゆる職場の職制から演説され、日本一の儲けがしらであるトヨタの賃上げの回答もまた、きたるべき「困難」に挑戦するために内部留保を厚くする、との名目で抑えられてきた。そしてついに「全面戦争」の時代を迎えたのである。一億の火の玉となって、欲しがりません勝つまでは、撃ちてしやまん、そんなような精神主義が繰り返し、繰り返し唱えられているのである。

トヨタでの労務管理の特徴をひと口でいうと、「鼻先にニンジン」ということになる。コンペアに縛りつけられた労働者たちは、「世界戦争に勝つ」の大号令のもとで、鼻先にニンジンをぶらさげられた馬のように、懸命に手足を動かす。ここでは、労働組合は駁者の助手である。トヨタでのもうひとつのスローガンは、「ムダをはぶけ」である。もちろん、人間のムダが最大の問題である。コンベアにはムダな人間はひとりもいない。だからトイレへいく自由まで奪われている。交替要貝はとうの昔に省かれてしまった。産業ロボットに替えられるまで、彼らはムダのない正確無比な動作を繰り返す。そして、いつもつぎの点をさかんに監視しあっているのだ。
 
Aさんがトヨタにきたのは、一九六九年の秋である。中学校を卒業して、二年ほど郷里の北海道ではたらいていたのだった。合板工場でニつすく削られた板の節目をノコで切り落とし、その穴を埋める。そんな仕事だった。毎日の単調な生活は、どこか遠くの見知らぬ土地ではたらくことを夢みるようにさせていた。なにかもっとちがう、もうすこし華やかな生活があるはずだ。そんな想いに捉われるようになっていたのである。

新聞広告をみて、町の職安へでかけたのは、クルマが好きだったからでもあった。埃まみれの合板工場よりも、きらびやかなクルマをつくりだす工場の方が若者にとっての魅力だった。その日、トヨタの採用係と面接したのは、Aさんひとりだった。家をでるとき、彼のポケットにはいっていたのは、四万円だった。函館にでて連絡船に乗る。津軽海峡をわたって青森から東北本線に乗りかえ、東京からは新幹線である。新幹線ははじめての体験だった。隣りあわせに座ったのは、まったくの偶然だが、やはりトヨタの見習い工として採用された二〇歳の青年だった。名古屋への二時間、窓の景色を眺めながら、ふたりはすこしずつ自分たちのことを話しあった。はいってまもなく、彼はやめてしまったのだが……。

改札口をでてすぐそばの壁画のまえが、集合場所である。トヨタの旗をもっか人事部勤労課の係員が、頃あいをみはからって、外にまたせたトヨタのバスに誘導する。わたしもそれとおなじ経験があるので、よくわかるのだが、名古屋から豊田心への丘を越えてくねりながらつづく道は、はなはだ心細いものである。

2015年3月6日金曜日

異常な低金利政策

大蔵相代理会議でも議題に上った日本経済のパフォーマンスが、ここで問題になる。円安・株安に象徴される平成不況第二幕の構造と処方箇について、日本国内のおおかたのコンセンサスは、次のようなものであったろう。

90年代後半の不況は、「橋本デフレ」とも称されるように、97年に3%から5%に消費税率を変更し、特別減税を廃止、さらに医療費の患者負担分を増額するという財政再建路線の貫徹によって、9兆円の負担増をもたらしたのがそもそもの原因である。97年を例にとると、景気実勢は0.7%のマイナス成長、加えて不良資産の滞留による金融不安があって、日本経済そのものの信認が問われている。したがって、その処方瀋は、内需主導による安定成長のための減税と不良債権の抜本的処理でなければならない。

政府もまたこうした議論を受け入れる形で、9兆円分を国民に還元すべく、28兆円の公共投資を行い、さらには恒久減税をも視野に入れた財政政策を打ち出すにいたった。協調介入に先だって、サマーズ副長官が大蔵省の榊原財務官に提示したといわれる「条件」も、同一線上の処方箋であったろう。

しかしながら、28兆円の景気対策に株式市場が反応を示さなかったことからも明らかなように、減税が景気の回復を促し、株安・円安の悪循環に終止符を打つであろうという予測にはまったく根拠がなかった。もし、株式市場が反応するような景気対策ということであれば、それはおそらく30兆、50兆といった非常識な金額を想定するしかなかった。財政状況から見て不可能であったし、仮に実行したとして、今度は米系格付け機関が日本国債のさらなる格下げを宣言する結果となったであろう。

90年代後半にいたって深刻化した平成不況第二幕の主役は、じつは0.5%の公定歩合を3年近くも続けている異常な低金利政策であった。95年9月、日銀が公定歩合を0.5%にまで引き下げた時点では、それはあくまで過度の円高に対する緊急避難的な色合いが濃かったが、その後円安の行きすぎが問題になっているほどなのに、金利を引き上げ、是正する動きは容易に具体化しなかった。

国民経済計算から算定すると、95年からの低金利によって、およそ年間10兆円の金利所得が消えていることになる。その性質からして消費に回りやすい金利収入が、GDPの2%も消失している。そのための消費の低迷であることに、全く関心が払われないのは奇妙なことであった。また、いっそう重要なことは、公定歩合があまりに低いため、長期債の利回りが1.1%にしかならず、金利裁定も働かないため、国内の資本が外国資産に向かわざるを得なかったという点である。そこで円か売られてドルが買われる。円安の背景には、低金利を嫌う国内資金の対外流出があったのである。

その意味では、金利の正常化こそが、円安にも、また長期にわたる不況に対しても、もっとも有効な処方箋であった。なぜ、この異常ともいえる低金利が、長期間、放置されてきたのか。目的が教科書にあるような古典的な景気対策ではなく、不良債権に苦しむ銀行などの金融機関を救済すること、その一点にあったことはすでに誰の目にも明らかであろう。そしてここでは同時に、次のような事情にも目を向けておく必要があるように思われる。

先の日米の財政当局者の話し合いのなかで、日本の金利政策が話題に上った気配はまったくなかった。80年代後半に行われた「政策協調」の事実から察せられるように、アメリカ側にとって、日本の高金利への転換は歓迎すべからざる事態であったことに変わりはない。

しかし、80年代の日米間の内外金利差と、形は同じでも日本側の事情が違う。95年以降、アメリカ国債が、日本にとって、いわば売り手市場の商品となっていたことは、日米経済の再逆転がここに定着してしまったことを、何よりも端的に象徴している。いつの間にか、不況下の大債権国・日本は、ふたたび債務国アメリカの資金循環の回路に組み入れられていた。このたびは、自らが施行した超低金利政策の代償として、ではあった。

2015年2月6日金曜日

日本が抱えている領土問題

日本が抱えている領土問題は、尖閣諸島、竹島、北方領土とそのどれもが袋小路に入り込んで、現段階では解決の道筋が見えてこない。主権が絡む領土交渉とは、それほど困難なものなのだ。しかし、領土主権が確保されないからといって、力ずくで領土を取り返したり、国家関係を断絶したりすることはできない。そこで、国連海洋法条約の批准にともなう経済水域の設定など、漁業問題のような実務関係は、領土問題から切り離して解決を図ることになった。

これによって、九八年九月にまず、難航していた新しい日韓漁業協定をめぐる交渉が基本合意に達し、両国が領有権を主張している竹島周辺は、暫定水域を設けて、共同で資源管理を行うことが決まった。これに続いて、同年十二月に北方四島水域の操業枠組みを決める日口交渉が実質妥協をみて、以後、日本漁船の安全操業が確保されることになった。九七年十一月の署名から二年以上に及ぶ日中新漁業協定をめぐるマラソン交渉は、二〇〇〇年二月に妥結、六月一日から発効することが決まった。

イワシやサバの好漁場とされる東シナ海に、新しい漁業の枠組みができ、中国漁船の操業を日本の管理下に置くことで、資源管理体制の基盤の確立に道を開いた。領土絡みの実務関係で残る最大の問題は、何といっても豊富な石油資源が埋蔵されている尖閣諸島周辺海域の海底油田開発である。日中双方が強硬に主張する領有権問題は、簡単には決着がつかない。将来、領有権問題は棚上げにして、日中共同開発の方向で平和的な話し合いによって、現実的な解決を図る以外に、この問題の解決の方法はないだろう。

2015年1月9日金曜日

人間絶滅工場

わたしは、アメリカのデトロイト市で、フォードの経営者やUAW(全米自動車労組)の代表と会ってロボット化について質問したが、労使双方ともおなじ意見だった。ロボットを導入しないと国際自動車戦争に敗れる、という意見である。全世界的にロボット化がすすめられる。ライバルに負けないために、敵を打ち倒すために。ロボットによる、代理戦争である。そのことは、工場の中で檻の部分が拡大し、工場全体がロポット園になることをも意味している。すでに兵器工場では、立ち入りチェックがきびしい。工場の中にもうひとつの檻がつくられ、ひろがり、工場全体が檻になりつつある。

ロボット化か秘密工場化にむかってすすむ。すでに、各企業、各工場のコンピュター化である。無人化は、非人間化の極限である。わたしは、日産座間工場の檻とビニールカーテンのわきを通り抜けながら、さいきん見学したおもちゃ工場を思いだしていた。おもちゃは、いまやほとんどLSl(大規模集積回路)を使ったエレクトロニクス玩具になっている。「ゲーム&ウォッチ」がその流行をつくった。ボタンを押すと液晶の動物や人間が動く。妨害物に当らないように行動させると点数がふえる。インペーダーゲームをポケット型にしたこのゲームが、いまのおもちゃの主流である。

だから、おもちゃ工場はいまや電機工場とおなじ光景となった。プリント基板に電子部品を埋めこむコンベア労働が中心である。コンベアではたらいている女子労働者(ほとんどがパートタイマー)の手首には、銀の鎖が巻きつけられていた。静電子の発生を防ぐためである。静電子がLSlに組みこまれたプログラムを混乱させてしまう、ときかされても、彼女たちが鎖によってコンベアに縛りつけられていることに変わりはない。

自動車工場の檻とおもちや工場の鎖。工場がコンピュータ支配による生産の場となって、労働者は囚人と化した。このことが、コンピュータ文明の未来を象徴しているようである。それでも、囚人となっても職場があればまだ幸せというものかもしれない。経営者の夢は「無人化工場」である。労働者を工場から駆逐すればするほど会社が儲かる。人間よりもロボットが大事にされる社会となる。百恵が引退しても、工場では、百恵第二号、百恵第三号が簡単につくりだされる。

『ロボット製造会社R・U・R』は、人類が滅び、咸丿情をもった男女のロボットが出現するところで終わっている。作者は、苦い想いをこめて、それをアダムとイブになぞらえている。コンベア労働の体験を日記にして出版したわたしの『自動車絶望工場』を、『自動車絶滅工場』と呼ぶ労働者は多かったし、いまでも多い。しかし、さいきんでは、「絶滅工場」に彼らの実感がこめられていた、ということがわかるようになった。ロボット絶望工場とは、「人間絶滅工場」なのである。