2016年3月5日土曜日

国際理解の教材

窓際で、六年生の女子七、八人が丸いテーブルを囲んで真剣に何かを書いている。担任の女性教師が『私の恐怖は』という副読本を示した。インドのカルカッタの子どもは食べ物もなく、学校へも行けず一家で物乞いしなければならない恐怖、バングラデシュの農村の子どもたちはサイクロンで人も家も押し流されてしまった恐怖、カンプチア難民の少女は両親も殺されてひとりぼっちの孤児になった恐怖、ベトナムの子どもたちは戦争について聞かされた恐怖、日本のヒロシマの子どもとデンマークの子どもは核戦争への恐怖。様々な恐怖におびえる現代の各国の子どもたちの物語を通じて、それを取り除くために何ができるかを話し合ったのです」。人権、平和、開発を結びつけた教育実践だった。

こうした地球的視野の教育は各科目にとりいれられていた。「たとえば、家庭科ではカレーを作りながら米を通じてアジアの農民を語り、バナナを通じて中南米プランテーションを調べるというように、どんな科目でも第三世界のことにふれるように心がけている」と、教師の一人、ウーレ・ベンゼン氏はいった。

図書室には、ハルトマン氏の本も並んでいた。何しろすでに二十五冊も書いている開発教育の第一人者である。『ジャマイカの子どもたち』『スーダン』などのアフリカシリーズのほか、『途上国に生きる』は地理の授業用に何万部も売れたという。どれも現地を訪ねてとった写真をふんだんに使い、親しみやすく書かれている。

「南の国の人々を貧しくみじめに描くのでなく、われわれと同じに泣いたり笑ったりする人間なんだ、と子どもたちが感じ取れるようにしたかった」というハルトマン氏は大学時代から国際関係に関心を持ち、ユニセフのスタッフになって開発教育に目を向けた。六〇年代後半、国際理解の教材はあっても、開発問題には適当な本がなかったので書き始めた。今は、消費の方法を子どもたちに考えさせる本に取りかかっているという。「結局、豊かな国の人々が暮らしを変えないと南は貧しくなるばかりだから」と、ハルトマン氏は畑に囲まれたシンプルな家で穏やかに語るのだった。

日本でも開発教育に関心をもつ人々が八〇年代に入って開発教育協議会を結成し、毎年全国研究集会を開いたり、季刊『開発教育』を出したりしている。学校現場で個人的に実践する教師もぼっぼつ出て来た。しかし、文部省の管理が強まるなかで、開発教育の広がり方は遅々としている。八年近くたっても、「開発教育」という言葉もまだほとんど一般に知られるまでに至らず、ほかの呼び方を考えたりしている状況だ。また内容も政治抜きの異文化理解にとどまることが多く、開発のあり方を問い、南北の不公正な経済構造にまで目を向けさせ、日本の責任を考えさせ、行動を起こさせる、という本来の開発教育とは程遠い現状である。